ROUND TAIWAN

意外に知らない台湾の歴史って?台湾旅行をもっと楽しむために知っておくべき台湾の歴史

はじめまして。もちだもじです。

突然ですが、これから台湾を旅行しようという皆さんが、「台湾」と聞いてどんなものをイメージするでしょうか。

或いは、皆さんが台湾旅行に行くときの目的ってなんでしょうか。

小籠包? 九份?

どちらも最高ですよね。僕も鼎泰豊は毎回行きますし、九份は何度行っても飽きません。ちょっと下の角度から見る九份が一番きれいだと僕は思います。
(ちなみに鼎泰豊は、回転率的に「台北101店」が一番の穴場だそうです)

▼九份の街並み

でも台湾が持っている魅力って、食べ物や観光地だけではありません。

街の醸し出す雑多な雰囲気、人々の距離感、路地裏の喧騒、そういった目に見えないものも、台湾の魅力なのだと思います。
(僕は毎回仕事を休んで台湾に行くと、多くの時間を公園でただ景色を眺めて過ごします)

例えば台湾の街を歩くと感じる、日本と異なるようで似ている感じ。あれはどこから来るのでしょうか。

例えば街を歩いていると出会う、台湾人とは少し異なる雰囲気の人たち。あれは誰なのでしょうか。

日本で暮らす我々にとって、そんな「目に見えない魅力」「未知のワクワク」がたくさん詰まっているのが台湾です。

そして、それらを紐解いていくには、台湾の歩んだ歴史を知ることが一番の近道だと思います。

観光地に行くにしても、台湾の歴史の大局からその場所を見ることで、より多くを知ることができます。

前置きが長くなりましたが、今回は、台湾(特に台北)への旅行をより深く楽しむために知っておくべき台湾の歴史について、浅く広くまとめていきたいと思います。

原住民の時代

台湾に外国勢力が流入してくる17世紀ごろまで、台湾の主な住民は原住民と呼ばれる人たちでした。

彼らは平地あるいは山地に集落を持ち、独自の言語の文化を維持しながら暮らしてきました。

テレビではサバンナやアマゾンの奥地に住む原住民が紹介されることが多くありますが、同じように台湾にも原住民と呼ばれる人たちが存在しています。
(日本語の「原住民」はやや差別的な意味合いを含むこともあり「先住民」という言葉を使うこともありますが、中国語の「先住民」は「先に住んでいるがその土地の所有権が無い人」を意味するために、当人たちの意思を尊重して「原住民」という呼称を用います)

▼台湾原住民ブノン族の集落近くにある紅葉少年野球記念館

主な部族としては、最多人数のアミ族(阿美族)をはじめ、パイワン族、タイヤル族などが有名です。中には、台湾本島ではなく離島の蘭嶼に住みトビウオ狩りをするヤミ族(雅美族。タオ族とも)のように一風変わった部族もあります。

現在は一般的な台湾人と同様の生活している原住民も多いため、異なる部族間のコミュニケーションは中国語となることが多くありますが、特に年配の原住民間のコミュニケーションでは、後述する日本統治時代の影響で日本語が用いられることも少なくありません。

ちなみに、現在の台湾では全人口の約2%が原住民となっています。

以降の歴史を通して台湾原住民は社会的に迫害され続けてきましたが、近年ではその地位が回復されつつあり、現時点では16の部族が政府に認定されています。

台湾原住民についてもっと知りたい場合は、台北の順益台湾原住民博物館がおすすめです。

世界三大が博物館と称される故宮博物館のすぐ近くで、近くの公園では原住民をモチーフにした像などが見られます。

士林からバスが出ていますので、時間が空いた際には立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

▼順益台湾原住民博物館
http://www.museum.org.tw/symm_jp/index.htm

オランダ領有時代

17世紀になると、ヨーロッパは大航海時代に突入します。

オランダやスペインなど当時の先進各国が、香辛料や新たな発見を求めアジアに押し寄せるようになります。

ヨーロッパで初めて台湾に行きついたのはポルトガルだと言われています。

ポルトガル船が台湾島に近づき、その輪郭を目にしたとき、船員があまりの美しさに「Ilha Formosa!(麗しの島よ!)」と叫んだという逸話から、「フォルモサ」という呼称が台湾島の別称として用いられています。

中国語での「美麗島」と合わせて、「フォルモサ(福爾摩沙)」という別称は台湾でよく見かけることになるかと思いますので、覚えておくとよいでしょう。

この時期、北部の基隆にはスペインが、南部の台南にはオランダが侵攻し、それぞれが要塞を築いて島の開拓を進めていました。

最終的には台南に拠点を持つオランダがスペインを駆逐し、負けたスペインは台湾を後にしますが、勝者となったオランダも、大陸から逃れてきた鄭成功率いる明の残党に敗れて、まもなく台湾から退却していきました。

新北市淡水にある紅毛城は、基隆に拠点を築いたスペイン人が建てた要塞で、淡水の高台にひと際目を惹く真っ赤な煉瓦造りの建物です。

紅毛城は台湾に現存する最古の建築物であり、ゆえに台湾では国家一級古跡に指定されています。

現在の紅毛城はオランダ人が再建したもので、紅毛城の名は、当時のオランダ人の別称であった「紅毛」に由来しています。

数十年前まではイギリスが領事館として利用していたこともあり、実際にこの場所で使われていた調度品がそのまま展示されているため、台湾にいながらヨーロッパの古城に足を踏み入れたような体験ができます。

淡水自体も観光地として非常に有名ですので、足を運びやすいのではないでしょうか。

▼紅毛城

明・清時代

明の鄭成功が台湾に入ると、台湾史上初の漢民族による政権が誕生しました。

それまでも中国大陸からの漢民族の流入は多くの例がありましたが、主権をもって積極的に統治したという点では明・鄭成功が初となります。

結果的には鄭氏政権は清朝の攻撃を受け、わずか20年程度で滅亡してしまいますが、鄭成功の名は「成功大学(国立大学の名前)」「成功路(道の名前)」など現在も台湾のいたるところで見ることができます。

鄭成功は清朝への反抗の足掛かりとして台湾の開発を推し進め、結果的にはそれが台湾住民の生活向上につながっているため、台湾での社会的評価は非常に高くなっています。

▼安平古堡の鄭成功像(※public domain)

次に台湾を支配するのは、鄭氏政権を倒した清朝ですが、清朝は台湾をあまり重視することなく、「化外の地(皇帝の支配を受けない地)」として長らく蔑ろにされてきました。

中国大陸からは多くの漢人が開拓者として渡ってきましたが、清朝の力が及ばない分、当時の台湾は治安が悪く、疫病の発生なども相まって過酷な環境であったと言われます。
(いまの台湾人の多くは、この時に台湾に渡ってきて原住民と同化した漢人の子孫であるとされています)

19世紀になると欧米列強が中国大陸に侵攻し、国防上の観点から台湾の扱いが見直されるようになったものの、最終的には日清戦争で清朝が日本に敗北し、1894年の下関条約で台湾は日本に割譲されることとなりました。

日本統治時代

「台湾はその昔、日本の一部であった」

この事実を知らない方も一定数いらっしゃるかと思いますが、ご存知の方も日本統治時代の台湾について詳しくイメージできる方は少ないのではないでしょうか。

日清戦争に勝った日本が台湾を領有することが決まると、台湾の住民は「台湾民主国」という国家を建国して日本に反抗を試みます。

しかし、政権基盤の安定しない台湾民主国は日本軍の攻撃にあえなく崩壊し、1895年より本格的な日本の台湾統治が開始されました。つまり、台湾が日本の植民地となったのです。

日本政府は台北に台湾総督府を置き、台湾への統治の本拠地としました。

これにより台湾全土の住民が日本の統治下に置かれ、高山に住む原住民も徐々に日本に屈服させられていきます。

稀に戦前の植民地状況を語る際に「日本の台湾統治は人情的であった」あるいは「人道的であった」と言われることがありますが、これは明らかに間違いと言えます。

確かに、台湾統治が安定していた1919年~1937年の間は内地延長主義といって、日本と同様の生活水準を台湾にも引き延ばしていくための施策が行われており、それにより台湾住民の生活レベルは飛躍的に向上したとされています。

しかしその一方で、安定期以前の統治初期と、日中戦争以後の統治末期に関しては、総統府の台湾統治はむしろ苛烈であったといえます。

統治初期には抗日運動の鎮圧のために武力を用いた厳しい取り締まりが行われ、統治末期には皇民化に基づく厳しい制約を課され、日本国内と同等かそれ以上に苦しい生活を強いられました。

そのため、台湾において日本統治時代の出来事が語られるに際しては、日本国内で聞くほど、良い評価ばかりというわけではありません。

とはいえ、日本統治時代がもたらした良い点もきちんと理解されている分、「良い点もあったし、悪い点もあった」という、あまり肩入れしないものの、一定の評価を含んだ物言いをする台湾人が多いといえます。

ちなみに、日本統治時代に対する台湾での評価は功罪様々が挙げられていますが、総じて否定的に語られる場合には「日據時代(日本が占領していた時代)」、肯定的或いは中立的に語られる場合には「日治時代(日本が治めていた時代)」と呼ばれる傾向にあります。

漢字の使い方ひとつで、書き手の政治的スタンスが分かるのは面白いですよね。

日本統治時代の代表的な建造物には、現在は台湾総統府として使用されている「台湾総督府」と、「国立台湾大学」が挙げられます。

台湾総督府は台北駅のすぐ近く、二二八和平公園を見下ろす形で位置しており、戦後は台湾総統府として利用されています。大通りから望む総統府は天気の良い日中は勿論のこと、日が暮れた後のライトアップされた姿も幻想的で非常に見ごたえがあります。

時間によっては内部が公開されており、かつて日本語教育を受けた台湾の老人たちが日本語で解説をしてくれますので、参加することで日本統治時代の台湾の暮らしについてより深く知ることができることと思います。

▼夕暮れの台湾総統府(日本統治時代の総督府)

また国立台湾大学は日本の帝国大学であったもので、現在「旧帝大」と呼ばれる東京大学や京都大学と並ぶものです。

その名の通り台湾でトップの大学ですので、本当に優秀な学生ばかりです。

台湾大学はMRT(地下鉄)公館駅のすぐ近くにあり、敷地内は自由に出入りすることができます。

正門を入ってすぐの椰林大道、突き当りにある図書館、野球場に、日本人アーティストのコンサートもよく開かれる体育館など、広大な敷地に様々な見どころがあり、平日であれば現地学生のキャンパスライフを覗くこともできます。

▼椰林大道(奥に見えるのは図書館)

国民党統治時代

日本が太平洋戦争で敗北すると、日本は台湾の領有権を放棄し、台湾は戦勝国であった中国(中華民国)の統治下に入ることとなります。

台湾住民は、戦時下の抑圧されていた生活からの解放と祖国への復帰を喜び、中国への回帰を「光復」と呼びました。

▼「台湾光復」(※映画「海角七号」より)

しかし台湾住民にとって「光復」は、真に願った形では実現しませんでした。

そのころ中国大陸では蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党による国共内戦が激化し、台湾に逃れた国民党は中華民国として台湾の統治を始めましたが、内戦で疲弊した国民党兵は統治意識が低く、略奪や婦女暴行などの横暴な行為を繰り返したといわれます。

それまで日本に統治され、抑圧されながらも秩序ある生活に慣れていた台湾住民にとっては、国民党の統治は期待を大幅に下回る絶望的なものであったといえます。

そして1947年2月27日、当時中華民国政府の専売となっていたタバコを秘密裏に販売していた台湾人女性を国民党官僚が殴打した事件を受けて台湾中の怒りが爆発し、翌2月28日に台北市では従来からの台湾人(本省人)による抗議デモが発生しました。

国民党側はデモ隊に対して機関銃を掃射するなど市民を無差別に殺害、本省人側も国民党とともに台湾に渡ってきた人々(外省人)を見つけ次第暴行を加えるなどし、本省人と外省人の対立は本格化していきます。

その後、1949年からは台湾全土に戒厳令が敷かれ、国民党政府や蒋介石一族に対する批判、日本や中国共産党など、国民党の敵になるものへの同調は厳しく取り締まられ、多くの知識人が投獄・処刑されました。その数数万人といわれます。

その間には日本語の排除、中国語教育の協力推進など、脱日本化と中国語化が協力に推し進められ、街頭の看板には日本語が禁止されるなど街並みも変わり、それまで日本語や台湾語で生活してきた世代と、中国語教育を受けた世代の間でのコミュニケーションができなくなるなど、本省人の間でも多くの隔壁が生まれました。

▼二二八事件以後に知識人たちが投獄された施設

戒厳令はその後も続き、解除されたのは今から約30年前の1987年のことでした。

1988年に蒋介石の子で、総統であった蒋経国が死去すると、親日家で知られる李登輝が総統に就任、台湾の民主化は一気に推し進められていきました。

それをきっかけに民主的な選挙の実施、民進党への政権交代などを経て、現在の自由で民主的な台湾へと繋がっているのです。

この時期を象徴する有名な場所としては、前述の二二八事件の中心地となった二二八和平公園があります。

都心にありながら緑豊かで綺麗な公園なのですが、敷地の端にひっそりと佇むのは台北二二八記念館。

二二八事件の顛末の記録や、二二八事件の被害者の名が記された記念碑などが展示されています。

記念館に入らずとも、公園の中央にそびえるモニュメントは見る価値ありです。

モニュメントの真下に通じる通路の両脇には水が流れ、モニュメントの中央で静かに流れ落ちる音は都会の喧騒を忘れさせてくれます。

この公園を中心に起こった悲劇を思い、平和に心を馳せるのもよいでしょう。

以前、二二八和平公園は酷児(クィア。性的マイノリティ)の集う場とされ、夜は近づくべきではないという認識がありましたが、現在はそのような状態はなく、夜間にも人影が行き来しており、前述のモニュメントも一層神々しく輝いている様子を見ることができます。

最後に。日本旅行者として、日本人として台湾にどう向き合うか

さて、ここまで台湾の歴史について、大まかに解説をしてきました。

大まかに、と言っても文章量としてはかなり多くなってしまい、もしここまで読み進めてくださった方がいるとすれば、一層の感謝をいたします。
ありがとうございました。

なぜ台湾の旅行情報がメインの当メディアで、わざわざ台湾の歴史などという小難しい話を持ち出したかというと、楽しいはずの台湾旅行を通して決して誰かを不快にさせてほしくないからです。

日本のメディアでは「日本の台湾統治が善良だったから台湾人は親日だ」と言われています。

ただ、台湾人の全員がそれに頷くわけではありません。むしろ、半分以上が苦い顔で笑うでしょう。

それは、日本の統治の良い点を知っている一方で、当時の悪い点や後遺症、今の日本との関係性に問題を感じる部分があるからでしょう。

それは日本と台湾との関係に限らず、中華人民共和国との関係、本省人と外省人の関係、漢人と原住民の関係など、台湾には乗り越えてきた、そして今後乗り越えるべき問題をたくさん抱えています。

例えば、「台湾人って日本が好きなんでしょ?」「中国のことをどう思う?」

そう問われた彼らはどう答えればいいというのでしょう。僕も今思えば、彼らにとって残酷な質問をいくつも投げつけてしまっていたと思います。

日本人である我々が、第三者に刷り込まれた固定化されたイメージで彼らを語り、彼らが克服した過去を引きずり出してきてはならないのです。
(たまに「台湾旅行」と聞くと「売春ツアー」を想起する方もいますが、それもあまりに無知といえます)

そうしたことが起こらないように、そして何より歴史を知ることで、台湾旅行をより深く、広く楽しめるようにこの記事を書きました。

九份のお茶屋のおばちゃんも、鼎泰豊のホールのお兄さんも、一人の台湾人であるということを決してお忘れなきように。

スペースに限りがあるゆえ、書ききれていない部分も多くあるかと思いますが、皆さんが台湾をより楽しむ上での一助となれば幸いです。

もちだもじ

※歴史考証や呼称などには諸説あります。本記事は特定の説を支持する意図を持ちません。

ABOUT THE AUTHOR

もちだもじ
静岡出身。東京在住。2012年から1年間、国立台湾大学に在籍。中国語能力がほぼゼロの状態で台湾に渡るも、約半年で「嘉義あたりの田舎のおばちゃんみたいな発音だね」と言われるまでに成長(?)。2013年の冬に電車で台湾一周(環島)を実施。八方雲集(台湾の餃子チェーン店)の餃子と金峰の魯肉飯をこよなく愛する。留学中、友人の依頼で主演を務めた短編ドラマがネットで話題になり、台湾のニュースサイトの一面で顔面を拡散されてしまった恥ずかしい過去を持つ。
Return Top